「文化の広報か、国策の宣伝か? : 戦争の世紀における日本の映画戦略

岩本憲児

《要約》Summary 

20世紀への転換期、映画が誕生した頃から、日本映画は戦争とどのように関わってきたのだろうか。小論は以下の構成を取っている。《1帝国主義と映画カメラ》; 近代日本は帝国主義化とともに、韓国、台湾、南満洲へ映画装置を持ち込み、「統治者 / 観察者の眼」による映画撮影および上映活動を始めた。《2 国際映画戦》;1920年代後半、日本の映画製作者・城戸四郎は経済、商業、貿易などの視点から、アメリカ映画の強大さに対抗すべく「国際映画戦」という言葉を使った。一方、この時期はプロレタリア文化運動が起こり、映画装置をプロレタリアの武器として使う議論も活発化した。《3 日本イメージの広報と宣伝》;満州事変(柳条湖事件)に続く国際連盟脱退によって日本は国際的なイメージを悪化させた。そのイメージ悪化を防ぐため、外務省は<近代国家・文化国家>としての日本像を広報する必要性を認識した。「国際文化振興会」は、映画ほか多様な広報媒体を使って海外へ<好ましい日本イメージ>を送り込んでいく。《4 文化の海外進出と映画の国策化》;1937年7月、日中戦争が本格化、諸外国が日本の動きを注視する。日本政府は映画法および映画国策化の準備に入る。新聞、ラジオ、言論などメディア統制の一環である。<大東亜戦争>により戦争が拡大すると、日本は海外(占領地を含む)へ向けて、日本文化の発信と国策の正しさを宣伝した。《5 結論》;日本製劇映画は占領地の文化と相違が大きく、理解されない作品が多かった。そのため「日本映画」の普遍性とは何か、という疑問が日本側(現地での映画上映関係者)に生まれた。プロパガンダ ( 国策宣伝、文化侵略 ではなく、現地の観客に必要な映画の製作と上映である。はして、日本の「映画戦」は成功したのだろうか。

 

==================================

講演内容

《はじめに》

このたびの国際研究集会では、1930年代から40年代にかけて、すなわち第二次大戦の時代における「映画戦」という大きな主題が掲げてあり、2日間にわたってさまざまな個別研究が発表される。ただし、私自身は時代の幅をもう少し広げて、20世紀への転換期に映画が誕生した頃から、日本映画は戦争とどのように関わってきたのか、概略を述べる。

 

1《帝国主義と映画カメラ》 

周知のように、映画は誕生したときから、カメラの題材に戦争が入ってきた。したがって、映画には当時の植民地主義や帝国主義のイデオロギーが目に見える形で入っており、映画とプロパガンダには切っても切れない関係がある。戦争と視覚メディア(映写媒体)が日本で直接に関わってくるのは、まず日清戦争(1894.6-1895.4)からであるが、これはまだ幻燈機の時代であり、映画カメラが関わるのは日露戦争(1904.2 -1905.8)以降である。日清戦争の結果、日本は台湾を、そして日露戦争の結果、南満洲鉄道と韓国を、自国の権益下に置いた。韓国の初代統監・伊藤博文は映画を積極的に利用して(1905~09の間)、韓国の平穏な風景や生活の撮影を、あるいは皇帝と統監の韓国巡幸(民生視察)の撮影を日本の映画製作業者に要請した。また、韓国皇太子を日本で保護・教育する様子を映画カメラに撮影させた。それは、日本人に向けては、韓国の平穏と日本統治の安定ぶりを伝えるためであり、韓国人に向けては、皇太子の安全と日本での優遇ぶりを伝え、日本による韓国統治の不安を懐柔するためであった。一方、満鉄(南満洲鉄道株式会社)は1923年、宣伝部に記録映画班を設置して、ここから記録映画が多数製作され、のちの滿映(滿洲映画協會)へと続いていく。滿映や、そこから生まれたスターの李香蘭(山口淑子)に関しては、これまでに研究の蓄積があり、四方田犬彦氏の基調講演も別に予定されているので、私はここではふれないでおく。 

 

2《国際映画戦》

さて、「映画戦」という言葉は早く、映画業界の若き指導者・城戸四郎(きどしろう)(1894‐977)から発せられた。彼が評論誌『改造』(1928年2月號)に書いた「国際映画戦」には<国際>という言葉が付いている。第一大戦後の国際連盟誕生が象徴したように、当時の日本では<国際>と<文化>は流行語にもなった。ただし、以下に示すように、城戸の論旨は戦争とは直接の関係がない。

すなわち城戸四郎は; 

(1) 文化、娯楽、教育、芸術を包み込む産業として映画を世界地理の中に位置づけた。

(2) 日本映画の海外輸出を推進 しようと意図した。そのために;

A 商工省に映画調査部を設けて諸外国の情報を収集する。 

B 外務省には販路拡張の支援を要望する。

C その目的はアメリカの強大な映画国策――産業としても国家イメージの宣伝としても――に少しでも対抗するためである。

彼の見解の背景には、アメリカの「排日移民法」(1924)があったのかもしれない。それは「日本人は入国も国籍取得も不可」という法律であり、日本ではこれを「人種差別法」とみて、政府・民間ともに憤激した。欧米の黄禍論とアメリカにおける人種差別とが日本政府と愛国主義の民間人に怒りを引き起こし、日米戦の将来を予想する本まで刊行される騒ぎとなった。

ところで、満洲事変が起きるまでの1920年代から30年代初頭、日本ではマルクス主義とロシア革命の影響が強く、学生・労働者・農民へは大きな影響を与えた。とりわけプロレタリア文化芸術運動は映画の大衆への宣伝力、煽動力を重視、「武器としての映画」を強調した。彼らは資本家階級との「映画戦」を強く意識したが、満洲事変以降の政府・警察権力による大弾圧によって壊滅状態となり、「国際」「文化」「武器としての映画」などの考えは、逆に政府・権力側で強化されていく。

 

3《日本イメージの広報と宣伝》

このような状況下、日本では軍部の力が増大、滿州事變を起こし(1931年9月)、國際聯盟から脱退した(1933年3月)ために、日本イメージが国際的に悪化した。そこで、政府や外務省は<正しい日本像>を外国へ伝えるために、広報活動の重要性を認識した。民間では、1934年刊行の『国際映画年鑑』に映画産業・経済関係情報が満載されており、そこには「世界映画国策調査資料」もあって、ソ連を含む欧米11か国の事情が報告されている。これ以降、『国際映画年鑑』の主宰者・市川彩は、「日本映画は海外市場へ出よ、アジア市場へ出よ」と眼を国外に向けて活発に論じていく。のちに内閣情報部はドイツほか外国の映画統制を調査・研究しつつ、映画法制定への道を進めた。

外務省は<近代国家・文化国家>としての日本像を広報する必要性を痛感、その重要な媒体に映画を選び、1935年秋に〈國際電影協會〉を設立した。その業務は〈國際文化振興會〉(1934年4月設立〉へと移行されるが、これらの協会は劇映画『荒城の月』(1937)ほかをヨーロッパへ送り、『新しき土』(1937)をドイツと合作したりしている。『荒城の月』は実在の作曲家をモデルにして、西洋音楽の受容とその日本化を描く作品。『新しき土』はドイツ人監督アーノルト・ファンク(Arnold Fanck)が伝統と近代の日本を描いた。「新しき土」とは<満洲>のことである。〈国際文化振興会〉は外務省・文部省・鉄道省の分立活動を一元化した組織で、目的は日本の芸術文化を海外へ紹介、広めることにあった。近衛文麿首相の弟で音楽家、近衛秀麿はサンフランシスコでニュース映画を見たとき、観客の中国贔屓に驚き、中国側の宣伝上手と日本側の宣伝下手を対比して、日本の情報戦の拙さに危機感を抱いた[1]

〈国際文化振興会〉[2]は、映像分野に関しては、海外展示に向けての幻燈板(幻燈用の絵や写真)の作成、写真誌『NIPPON』への援助、写真壁画や歌舞伎舞踊の記録映画『鏡獅子』(小津安二郎監督)の製作、教育・歴史・文化・産業などの日本紹介映画の製作、アマチュア映画の公募など多岐におよんでいる。また、英語版のCinema Year Book of Japanを三度刊行(1936-37,1938, 1939)、日本映画の紹介記事と写真、統計数字などを写真とともに掲載、文化映画(記録映画)や朝鮮映画の紹介も行った。ソ連邦(ロシア)への映画広報としては、満鉄発行のロシア語版「現代日本映画」(1940)があり、興味深いことに著者は英語版 Cinema Year Book of Japan の主要な筆者の一人でもある岩崎昶である。

 

4《文化の海外進出と映画の国策化》

日中戦争の本格化(1937年7月)により、諸外国が日本を注視するなか、日本政府は映画国策化を進めた。日本国内の映画製作会社はすべて民営企業だったので、政府の意向は円滑には浸透しなかったが、映画法が成立(1939年4月公布、10月実施)、政府が生フィルムを統制したことで、映画業者も妥協せざるをえなくなった。一方、満映の映画製作は民営ではなかったので、日本国内より早く国策化が進展した。同様に朝鮮(韓国)でも日本国内より早く国策化が進んだ。映画法の是非をめぐっては雑誌・新聞に評論が掲載され、反対論の代表者は映画評論家でマルクス主義者の岩崎昶、彼は映画法施行後に逮捕され、執筆活動も禁じられた。

<国策映画>とは、政府 ( 軍部の力が強かった)が映画法に基づき製作会社へ要請して、会社に協力させる映画政策のこと。また<国民映画>とは、文部省や情報局[3]が国民に鑑賞を薦める映画のこと。国策映画であれ、国民映画であれ、成功作はごくわずかで、観客は戦争や国策とは関係のない娯楽映画やスターに、慰安や楽しみを求めた。映画製作各社も本音は観客吸引と興行上の利潤にあった。帝国日本が<大東亜戦争>を起こすと、海外に向けて、プロパガンダとしての映画利用が強まり、戦争が拡大して戦期が長引くと、政府も方針を転換、国内の国民慰安のために娯楽映画製作を容認した。国策映画には成功作がある一方、軍部が公開禁止にした作品もある。たとえば、記録映画『戦う兵隊』(1939、亀井文夫監督)は「疲れた兵隊」で厭戦的だと批判されて、公開不許可となった。劇映画『陸軍』(1944、木下恵介監督)の長いラストシーンは戦意高揚か、それとも反戦平和を祈るのか、両義的であり、撮影に協力した軍部には不評だった。JAPAN TIMES Weekly, Movie Supplement (Dec.10.1942)は大東亜戦争開始1年後、英語による日本映画のプロパガンダであり、<文化国家>日本を、また映画を製作できる<科学・産業国家>日本を宣伝した。

さらに、大新聞各社のニュース映画製作が統合され、一元化されて『日本ニュース』映画となり、多くの家から出征兵士が出ていたために国民の関心が高まった。これらのニュース映画は占領各地でも現地の言語を付して上映された。戦時下のニュース映画は現在、website で公開されたり、DVDで販売されるようになり、当時の貴重な映像史料として甦っている[4]。いまの私たちには、言語資料とは別の、時代の缶詰を開けるような発見があるので、映像を通して新たな世代に歴史の検証と読み直しをもたらすことだろう。

 

《おわりに》

日本の映画戦略をまとめると次のようになる。

1 民間では映画製作者による海外の市場開拓が模索されたが、成功したとは言い難い。

市川彩は映画の海外市場、とりわけアジア市場への進出を積極的に提言した。日中戦争期と重なり、彼の論調に日本軍の「進軍」と重なる「日本映画進出」の高揚感があったかもしれない。

 津村秀夫 (映画評論家・新聞記者)は、大東亜戦争末期に『映画政策論』(1943.10)と『映画戦』(1944.2)を著わして、映画による宣撫工作、プロパガンダの意義を訴えた。文章は書名の激しさに較べると扇動的ではなく、研究的、報告的、客観的な筆致が見られるが、そこには<大東亜戦争>へ同調する高揚感および緊張と熱気も強く感じられる。

2 外務省系では、国際映画協会や国際文化振興会が海外へ向けて日本文化の広報活動を行なった。これらの広報活動の結果について、当時の資料が存在するかどうか、私は未調査である。

3 文部省と情報局は国策映画の製作推進と国民映画の推奨を行なった。その成果については古川隆久氏の著書がある[5]

4 内閣情報部(1937年に設置)は国内外の情報収集と宣伝活動を、情報局(内閣情報局1940年12月発足)は戦時下における言論・出版・文化の検閲・統制、マスコミの統合や文化人の組織化、および銃後の国民に対するプロパガンダを行なった。大戦末期、陸軍省、海軍省、外務省ほか各省庁の情報関係機関を一元化しようと試みたが、不成功に終わった。

5 大東亜戦争期の日本占領各地では、映画による宣撫・啓蒙・教育・慰安が実施された。

大別すると劇映画と文化映画(または記録映画)になる。はたして、占領下の現地ではどんな映画が必要とされたのか?

まず、劇映画は占領地と文化の相違が大きく、理解されない作品が多かった。そのため「日本映画」の普遍性とは何か、という疑問が日本側(現地での映画上映関係者)に生まれた。つまり、現地で理解されやすかったのは、文化映画、記録映画、ニュース映画、教育映画などである。しかも、それらは日本国内で製作された既成作品よりも、各地の状況に合わせて現地で製作するほうが好ましかった。プロパガンダ ( 国策宣伝、文化侵略 ではなく、本当に現地の観客が欲する映画の製作と上映である。だが、戦争末期 には生フィルムが欠乏しており、既成作品にさえ選択の幅と数が不足していたので、「映画戦、映画工作」は試行錯誤のうちに敗戦を迎えた[6]。マイケル・バスケット(Michael Baskett)の言う<Attractive Empire >(魅惑の帝国)は大半の占領地に反感と憎悪を残す<Unattractive Empire>、つまり<魅力の無い帝国>となり、<大東亜共栄圏>の幻想は

消え去った。戦争末期、シンガポールで映画工作に携わった映画監督・小津安二郎は、1本の映画も作れないまま、敗戦を迎えた。

===========================================================

 

補足:

*<大東亜戦争>1941.12.81945.8.15当時の連合国は終戦後に<太平洋戦争>と命名、

戦後の日本でも学校の歴史教育でこの呼称が使われたが、現在の日本では <アジア太平

洋戦争>の呼称が広まりつつある。

*各地における映画宣撫の実態は少しずつ研究と報告が蓄積されてはいるが、全容をまと

る作業は今後の課題であろう。

なお、注6でもふれたが、 日本国内のみならず、中国、韓国、台湾、東南アジア諸国に関する戦時下の日本映画製作と政策に関する各論は、下記の文献(岩本編=森話社刊)に多数の執筆者が寄稿しているので、それらを参照されたい。細部の文献資料はそれら各論にも記載がある。

岩本憲児編『日本映画とナショナリズム 1930-1945 』『映画と「大東亜共栄圏」』『映画のなかの天皇』『占領下の映画』(敗戦後日本)、『日本映画の海外進出』(その歴史)、以上は森話社刊。論文「戦時下における外国語版〈日本映画年鑑〉刊行の背景を探る」日本大学芸術学部紀要2011

 

 

 


[1] 近衛秀麿「国際宣伝戦に於ける映画の重大性」、『国際映画新聞』209号、1937年11月上旬号。

 

[2] <国際文化振興会>の全体像については、下記を参照。

柴崎厚士『近代日本と国際文化交流 国際文化振興会の創設と展開』有信堂、1999年。 

 

[3] 情報局は1940年12月、各省・各軍部に置かれていた情報関係組織を一元化して設立された。それ以前は内閣情報部、その前は情報委員会。

 

[4] ①「日本ニュース」website <NHK 戦争証言アーカイブス>、

http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/list.cgi / ②DVD「戦時下のスクリーン:発掘された国策映画」1929-1945、正続、日本映画新社。③DVD「朝日世界ニュース」抜粋1936.3‐1940.5、5枚組、朝日新聞・朝日動画社。  

 

[5] 古川隆久『戦時下の日本映画 人々は国策映画を見たか』吉川弘文館、2003年。

 

[6] 占領各地における日本映画の状況については、日本語文献にもいくつかの論考がある。たとえば、寺見元恵「日本占領下のフィリピン映画」、『戦争と日本映画』【講座日本映画】第4巻、岩波書店、1986年。岡田秀則「南方における映画工作」、『映画と「大東亜共栄圏」』森話社、2004. 同書にはほかにも多数の論考が収録されている。近刊の『日本映画の海外進出』(岩本憲児編)には、晏妮「満州における日本映画の進出と映画館の変容」、張新民「占領下の華北における日本映画と映画館」が収録されている。